2019年4月20日土曜日

 

湯船にぴんと張ったお湯につかりながら思い返した。毎日桶さん倍の雨水で体を洗っていた日々を。今から考えればカンボジアで過ごした二週間のすべてが初めてで、新鮮で、ほんの数日前のことであるのに、眠っている間に見た夢のようにさえ感じる。

 巨大な木、へんてこな植物、色鮮やかな花、たくさんの生き物にたくさんの昆虫たち...

 学校で、村で、たくさんの子供たちに出会った。顔を合わせると、みんなはじめは異国からやってきた背の高い人間に少し緊張した様子で顔をじっと見つめ返してくるが、こちらからニッと笑ったりムッと変顔をしてみたりすると一気に頬の筋肉が緩み、笑顔を返してくれる。ムムッと変顔を返してくれる子もいた。
 もうひとつ、コミュニケーションをとるのに欠かせなかったのが、ハイタッチである。手と手をパン!と交わすだけで笑顔になって仲良くなれた。ここまで来たら、あとは思いっきり遊ぶだけだ。裸足で走り回り、サッカー、バレーもした。彼らの身体能力にはたびたび驚かされた。
 国や文化、言葉の壁なんて子供たちとの間にはあってないようなものだった。

 そして忘れてはならないのが、たくさんのゴミである。ホームステイ先に到着して活動の初日に、20キロほどの田舎道を歩いたのだが、その時目にしたゴミの量に驚いた。アスファルト舗装のされていない赤土の道の両脇に家庭から出たであろうゴミがわんさかあふれていた。周りに家のない、自然にあふれた大地ですら、たくさんのゴミを目にした。
 これでは美しい景観が台無しであるし、家畜が放し飼いにされているカンボジアで牛や鳥が誤飲し、それを食べた人間に影響が表れることも考えられる。なぜこんなにもゴミだらけなのか、ホームステイ先の青年に尋ねてみた。
 彼曰く、もともとカンボジアの人々の生活から出るゴミといえば、バナナの皮や椰子の実や葉など、自然に還るものばかりで、ゴミは自然に還すもの、として道に捨てることが習慣化されていた。その後プラスチックなど自然に還らないものが人々の生活に加わるも彼らの習慣は変わらず、現在に至っても道はゴミだらけというわけである。
 もう一つの理由として、カンボジアにはゴミ処理施設が無い、ということがあげられる。そのため田舎の道端にたまったゴミも最後はその場で燃やすしかないようだ。おそらくプラスチックの不完全燃焼により、人体に影響を及ぼす有害物質もたくさん発生しているだろう。
 都市部では、道にしっかりゴミ箱が設置してあり、田舎ほどたくさんのゴミを目にすることはなかった。しかしゴミ処理施設はないわけで、集められた大量のゴミは廃棄物集積場—————————通称ダンプサイトへと向かうのである。

 ダンプサイトには缶やペットボトルなどのゴミを拾い集めてそれをお金に換えて生活している人たちがいる。生きるためにゴミを拾っているのである。中には子供でさえも、学校に行けず朝から晩までゴミを拾い続けているという。しかも裸足でだ。ゴミの中にはガラスの破片や注射針なども混ざっているから、はだしで歩くのは非常に危ない。
 ということをカンボジアに行く前に、先輩の話やインターネットで調べて知った。そして明石高専のチームから、ダンプサイトの人たちにサンダルをプレゼントすることに決まる。

 ドネーションの活動で最後に訪れたのがダンプサイトであった。現在、ダンプサイト内に外国からの訪問者は立ち入ることができないということで、活動は、ダンプサイトからほど近い空き地でおこなわれた。そこは想像していた大量のゴミはなく、強烈なにおいもしなかった。しかしやはり、ほかの村の人たちよりも裸足の人が多かった。
 バスを降りた時は大人子ども合わせて、およそ100人弱の人々が集まっていたのだが、バスからドネーションの食べ物や衣類、そしてサンダルを運び出し終わるころには
200人近くの。人たちが集まってきていた。持ってきていたサンダルは300足強であり、
1人につき2足のサンダルを渡すというプランを急遽1足にしてサンダルのドネーションが始まった。前日の晩に厚紙と段ボールで作った足の大きさ計測版で一人一人の阿新大きさを測り、それぞれの足に合ったサイズのサンダルをプレゼントする、という流れである。
 ここでもやはり、笑顔とハイタッチで互いに緊張をほぐすことができた。足の大きさを測り、サンダルをプレゼントするとさらに笑顔があふれた。
 日も暮れ、サンダルも残り少なくなるとそれぞれにちょうどいいサイズのものが無くなり、小さい子供にブカブカの大人用サンダルをプレゼントするしかなかった。しかしそれでもまだよかった。もうサンダルはなくなる、というころになっても子供たちは集まり続けて、最後の一足を手渡した際に周りにいた多くの子供たちは裸足のままであった。
「私はもらえないの?」という表情でこちらを見る少女の顔が忘れられない。
 裸足のままの彼女らから、逃げるようにバスに戻った。悔しかった。しかしその時の自分にできることは何もなかった。それが余計に悔しさを駆り立てた。
 帰りのバスでもう一度ここへ来たいと思った。もう一度来なければならない、と思った。

 巨大な木、へんてこな植物、色鮮やかな花、たくさんの生き物たち、そしてたくさんのゴミ...
 小学校で出会った子供たちはかわいかった。言葉で会話はできないが、体で、心で仲良くなれた。村で出会う人たちはとても貧しい暮らしをしていた。しかし彼らからは強さとやさしさを感じた。ダンプサイトの子供たちは、泥だらけの裸足の足で、それでも強く、大地を踏みしめていた。
 そして出会ったすべてのカンボジアの人々から、“生きる”を感じた。この地で生きているのだ、と感じた。これまで考えたことのないことだった。

 このプロジェクトに参加してよかった。カンボジアに来てよかった。カンボジアを知ることができてよかった。次来る時までに、カンボジアの風景からゴミを無くし、ダンプサイトの人たちがゴミを拾って生活しなくてもよくなるような新しい作戦を立てよう。ゴミ拾いからでもいい。そうすればカンボジアはさらに美しく、さらにたくさんの笑顔であふれる場所になるはずだ。

 今回の経験を土台に、カンボジアの未来につなげる作戦を立て、もう一度カンボジアへ行き、作戦の実行だ。
 そしてもう一度、美しく偉大な自然、人々、生き物たちに会いたい。
———————つまりカンボジアに会いたい。
つまり————————カンボジアが大好きである。







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